「歯と口から見える子どもの成育環境」
広島大学大学院医歯薬保健学研究院
小児歯科学 教授 香西 克之
口腔疾患のうち齲蝕(Dental Caries, 以下,虫歯)は人類の代表的疾患であり,日本でも1950〜1980年代くらいまでは虫歯の洪水とまでいわれていた。虫歯は口腔常在菌であるミュータンスレンサ球菌が砂糖を基質として粘着性のバイオフィルムを歯面に形成し増殖する。本菌が産生した酸により歯面は溶解(脱灰)侵蝕され穴となる。これが虫歯の成り立ちで一種の感染症といえる。虫歯は食生活習慣が関わるため,小児では養育環境が虫歯の発症を大きく左右する。かつて虫歯大国だった我が国では様々な対策が実施され,結果的に低年齢児の虫歯の平均本数は著しく減少した。現在では,多数歯虫歯は一部の小児に限局化している。そこで,今回は,歯と口から見える子どもの成育環境と今後のアプローチについて考察してみたい。
虫歯の発症年齢,歯種,歯面から成育環境をある程度推測することができる。
「哺乳齲蝕(虫歯)」は,哺乳瓶にスポーツドリンクなど酸性飲料を入れ夜間就寝中の飲用を習慣化した場合に数ヶ月で生じる上顎の乳前歯から乳臼歯にかけて生じる低年齢児の虫歯である。また卒乳時期を過ぎても母乳が継続する児では,間食習慣が不規則になりやすい傾向がありその場合も幼児期に虫歯を作りやすいとされている。
歯の発育にも原則があり,乳歯や永久歯の萌出や生え替わりの時期や順序には一定の秩序がある。萌出後もしばらくは石灰化を続けるため,この時期は虫歯になりやすい。これらのことから,虫歯の部位や状態によって,何歳頃に食生活の乱れや歯口清掃の不良を来したのかが推測できるわけである。
小児の歯科疾患を多数経験すると,小児の口腔状態が成育環境を反映しているのがよくわかる。虫歯予防は対策が実行可能な環境にないと実現は難しい。本邦では家庭(親)や歯科医師の努力の結果,今日の虫歯減少に結びついたと考える。しかし,虫歯減少の日本社会なかで,多数の虫歯を持ち重症化する小児が依然として存在する。自分では口腔環境をきれいにすることができず劣悪になるケースである。発達障害児,ネグレクト(養育放棄や医療ネグレクトなど),有病児などが相当する。虫歯の洪水が引いた後も,なお虫歯で病んでいる小児はこのような子どもたちなのである。
我々小児歯科医は小児歯科学の専門的知識と経験を生かして,これらの小児の歯科疾患の予防,早期治療を実行していかなければならない。国内の歯科医療界では,小児の虫歯はすでに過去のものとして扱われる傾向にあり,高齢者歯科医療に多くの精力を注いでいるように思える。地球規模では爆発的な人口増加が続いており,歯科疾患も世界的にみれば今なお増加し続けている。数十年あるいは百年後の将来を見据え,今後も小児の歯科医療や口腔保健に貢献したいと考えている。
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